LOGIN仕事帰りの電車の中で、同僚の山田さんの言葉が何度もくり返されていた。
「柊さんがシフトの日しか来ないの、知ってました? 一回も」
あれは本当だろうか。
真尋がシフトに入っている日以外には、一度も来ていないなんてにわかに信じがたい。山田さんだって毎日出勤しているわけじゃないだろう。休憩に行くこともあるし、休みの日だってある。山田さんがいないときに晃がきている可能性は十分にある。
そもそも確認のしようがないじゃないか。「一回も」なんて断言できるほど、四六時中フロアを見ているわけじゃない。
確かに晃は目をひく見た目をしている。身長も高いし、スーツ姿はシャープで、書店の客の中では明らかに浮く。だから印象に残りやすくて、毎回来ているように見えるだけではないか。
晃は本が好きだ。俺がPOPを書いた本は全部好きだと言ってくれた。「書いてる人の温度が見える」と。あんなふうにPOPの価値をわかってくれる人が、真尋のシフトを調べ上げて、わざわざ来店するような人間だとは思えない。
そうに決まっている。
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになった。疑いたくない。あのやわらかい笑顔の裏に、なにか別の意図があるなんて思いたくない。
晃さんは、そんなことしない……よな。
真尋は窓の外に目を向けた。五月の夜はもうすっかり暮れていて、暗闇の中を民家の灯りが流れては消えていく。ぽつぽつと点在する窓の光が、流れ星みたいだと思った。
その週は珍しく、土日が連休だった。書店勤めの真尋にとって、週末に二日続けて休めることはほとんどない。
いつもの休日なら行きつけのカフェで読書をするところだが、土日はどこも混む。ざわついた中では集中できない。真尋は自宅で読書をすることにした。
ソファに寝転がって文庫本を開く。カーヴァーの短編集。窓の外から差し込む五月の光が心地よくて、気づけば三時間が経っていた。壁の向こうからは、晃がキッチンに立っているらしい物音がときどき聞こえる。鍋をかき混ぜる音、まな板を叩く音。もうすっかり聞き慣れてしまった隣人の生活音。
読んでいた本から顔を上げると、もう昼だった。伸びをしてキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、晃が作ってくれたパスタソースが残っていた。
「今日の昼は、これでいいか」
鍋に水を張って火にかける。パスタソースをフライパンであたためているあいだ、ニンニクとトマトの匂いがキッチンに広がった。やっぱりうまそうだ。こんな本格的なソースを「作りすぎた」のひと言で片づけられるのは、よほど料理が得意なのだろう。
湯が沸くのを待つあいだ、手持ち無沙汰でスマホを手に取った。何気なく颯太に「久しぶりの土日の休み」とメッセージを送ると、即座に電話がかかってきた。
「なんだよ、急だな」
「真尋、今日暇?」
「うん。なにも予定ないけど」
「明日も仕事休みか?」
「そうなんだよ。珍しく二連休でさ」
「なら今夜、飲みに行かね? お前に話したいことがある」
「話したいこと?」
「会ったとき話す。場所はあとでメッセージ入れるわ」
そう言って電話は切れた。
パスタを茹であげて、ソースと和える。皿に盛ってひとくち食べると、やっぱりおいしかった。トマトの酸味と肉の旨みのバランスが絶妙で、これがプロの味じゃないというのが信じられない。晃は広告代理店で働いていると言っていたが、料理人としても十分やっていけるんじゃないだろうか。
颯太の「話したいこと」が少し引っかかったが、パスタを食べているうちに、まあ会えばわかるか、と思い直した。壁の向こうからは、今日も鼻歌が聞こえている。
颯太が指定したのは、これまで行ったことのない居酒屋だった。学生時代からいつも同じ店で飲んでいたのに、珍しい。最寄り駅からも少し離れた路地裏にある、こぢんまりとした店だった。
店に入ると、颯太はすでに一番奥の席に座っていた。壁を背にして、店内全体が見渡せるポジション。まるで密談でもするみたいだ。真尋の姿を見つけると、右手を軽く上げた。
「お待たせ」
「全然。座れ」
いつもより颯太の表情が硬い。眉間にうっすらとしわが寄っている。なにか深刻な話なのだろうか。
「とりあえず、生でいい?」
「おう」
乾杯もそこそこに、颯太は鞄からクリアファイルを取り出した。
「これ」
「なんだよ、これ」
手渡された書類にはグラフと数値が並んでいる。横軸に日付、縦軸にはなにかの数値。棒グラフの色分けが赤と青に分かれている。
「偶然の出会いの確率分析だ」
「は?」
真尋はなんの話をされているのかさっぱりわからなかった。しかし颯太は腕を組み、満足げに、そして得意げにこちらを見ている。
「どうだ。わかりやすいだろ?」
「だから、なんなんだよこれ」
「お前から聞いた情報をもとに、お前とお隣さんが偶然に出会う確率を計算した」
「……お前なあ」
真尋は大きくため息をついた。
けれど、正義感の強い颯太のことだ。真尋が変なことに巻き込まれないよう、本気で心配してくれているのだろう。IT企業のマーケティング部門で働く颯太にとって、データの異常値に気づくのは職業病のようなものだ。
「結論から言う。お前と一ノ瀬が偶然会う頻度は、統計的にありえない」
「統計って……大げさだろ」
「大げさじゃねえよ。いいか、お前はマンションに住んでる他の住人と毎日顔を合わせるか?」
そう言われると、返す言葉がない。今までマンションの廊下やエレベーターで会った人なんて、片手で数えるほどだ。
「いないけど……隣の部屋だから、たまたま生活リズムが……」
「たまたまで行きつけのカフェにまで現れるか?」
「……」
「しかもそのカフェ、駅からも離れた場所だろ。お前以外にあの店を知ってる知り合いは、何人いる?」
「それは……」
真尋は口ごもった。あの店を教えてくれたのは、大学時代の先輩だ。駅から離れた裏路地にあるせいで、いつも空いている。それが気に入って通いはじめた。けれど、そのカフェの存在を誰にも言っていない。颯太にすら教えていない。
「ゼロだよ。お前は誰にもあの店のことを話してない。なのに一ノ瀬はそこに現れた。これを偶然だと思うか?」
トン、と颯太が指でグラフの一点を叩いた。赤い棒が突出している箇所。真尋には数字の意味がわからないが、明らかに他と比べて飛び抜けている。
「ここだ。遭遇回数がこの値を超えた時点で、偶然の範囲を超えている」
颯太がぐびっとビールを飲んだ。真尋はジョッキに手を伸ばしたが、喉が渇いているのかそうでないのかもわからなかった。
「さらに言うぞ。書店への来店パターン」
「……待て。書店のことまで調べたのか」
「お前の同僚の山田さんに聞いた」
「なんでお前が山田さんと連絡取れるんだよ」
「この前、お前を迎えに書店に行ったとき、名刺交換した」
「……そこまで調べるお前のほうがこわいよ」
半笑いで言ったが、声は震えていた。颯太が山田さんから聞き出した話のほうが、真尋が直接確認するよりもずっと客観的だった。
颯太は眉間にしわを寄せて、まっすぐ真尋を見た。
「あの男の引っ越し時期、書店への来店パターン、カフェでの遭遇率。全部つなげたら一つの結論しか出ねえよ。意図的だ」
居酒屋のざわめきが、一瞬だけ遠のいた。枝豆をつまむ指が止まる。
「俺はデータの話をしてるんじゃない。お前のことが心配なんだよ」
颯太はそう言って、ビールのジョッキを置いた。目が据わっている。酔ってはいるが、本気の目だ。
「高城のときもそうだった。お前はいつも相手を信じすぎる。信じたい気持ちが強すぎて、おかしいところに目をつぶるんだ。俺はそれが見てらんねえんだよ」
返す言葉がなかった。颯太は正しい。響のときも、周囲が「あいつはお前を大事にしてない」と言ったのに、真尋は聞かなかった。信じ続けた結果、「お前は重い」のひと言で別れが待っていた。
今まで真尋が接してきた晃は、穏やかで人当たりがよくて、本の話をするとき目を輝かせる男だった。確かにあの夜は身体の関係を持ったが、それ以降は手を出してこようともしなかった。「もっと知りたい」とは言ったが、無理に踏み込んではこなかった。壁越しに咳が聞こえたからと、夜中に風邪薬を買いに行ってくれた。
そんな晃を、疑いたくない。
なのに、颯太のデータを見せられると、まるでストーカーの行動記録のように見えてしまう。頭ではおかしいとわかっている。だが、数字は嘘をつかない。颯太がこんな手間をかけるのは、真尋を本気で心配しているからだ。
「……このデータは、間違ってるかもしれないだろ」
自分でも苦しい言い訳だとわかっていた。
「俺の勘、外れたことないからな」
颯太の目は真剣だった。冗談を言っているのではないことが、痛いほどわかる。
「お前はもうちょっと自分を大事にしろ」
颯太がぼそりと付け足した。その声がやけにやさしくて、真尋は居酒屋の喧騒の中で一瞬、泣きそうになった。
長年の友人の言葉よりも、つい先日出会った男を信じたいと思っている自分に、真尋は戸惑った。颯太の言う通りだ。いつも信じたい気持ちが先に立って、おかしいところに蓋をしてしまう。
また同じ過ちをくり返すのだろうか。
真尋はビールを一気に飲み干した。苦さだけが喉に残った。
もやもやした気持ちのまま颯太と別れ、自宅に戻った。
五月の夜風がぬるい。ビールの酔いで少しふらつく足で廊下を歩くと、自分の部屋のドアノブに紙袋が下がっていた。
それを見た瞬間、反射的に胸があたたかくなった。あたたかくなってしまった。さっきまで颯太にあれだけ言われたのに、この紙袋を見るだけで気持ちがほどける自分がいる。
晃が差し入れを作ってくれたのだ。
紙袋を手に取ると、ずっしりと重い。中のプラスチック容器に添えられたメモを確認する。あの几帳面だけどどこかやわらかい筆跡。
『明日のお昼にでも食べてください。一ノ瀬』
指先が止まった。
――なぜ、明日が休みだと知っている?
真尋のシフトは不定休だ。明日が休みだと知っているのは、颯太と、栞堂の同僚だけのはず。
昼に颯太と電話をしたとき、「明日も珍しく休みで」と口にした。壁が薄いのは知っている。たまたま聞こえただけだ。そう、たまたま。
颯太の声が頭をよぎる。「偶然の出会いが統計的にありえない」。
いや。たまたまだ。たまたまに決まっている。
なぜこんなにも、颯太の言葉よりも晃を信じたいと思うのだろう。そのことが、真尋自身にもわからなかった。響のときも、そうだった。信じたい気持ちが強すぎて、見えるものが見えなくなっていた。
部屋に入って差し入れを冷蔵庫にしまい、シャワーを浴びた。熱い湯を浴びても、胸の中のもやもやは消えない。颯太のグラフが頭にこびりついている。あの突出した赤い棒。偶然の範疇を超えている、という言葉。
髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、スマホの画面が光っていた。颯太からのメッセージだった。
『さっきわかったんだけど、お前の隣人の一ノ瀬晃。お前たちが出会った月虹のバーテンダーと大学の同級生だ。
スマホを持つ手が、ぴたりと止まった。
あの夜、真尋は月虹のカウンターに座っていた。後から晃がやってきて、バーテンダーの片桐が真尋の隣の席を勧めた。「こちらへどうぞ」。あの自然な誘導。あまりに自然すぎて、なにも疑わなかった。
あれが――仕込みだった?
スマホを握る手が震えた。
あの夜、片桐がにこにこ笑いながら晃を真尋の隣に座らせた。本の話で盛り上がったのも、名前を呼び合ったのも、ホテルに行ったのも。全部、最初から仕組まれていたのだとしたら。
紙袋の中のあたたかい料理。壁越しに聞こえる鼻歌。メガネの奥のやさしい目。風邪のときに走ってきてくれた夜。「真尋さんの選ぶ本、全部好きです」。あの言葉は、本当だったのか。
壁の向こうは、静まり返っていた。いつもなら聞こえるはずの鼻歌も、今夜は聞こえない。
その沈黙が、今はなにより重かった。
真尋の仕事終わりが晃の退勤時間と重なる日は、必ず晃が栞堂に迎えにきてくれる。一緒に帰るのが当たり前になっていた。 隣人だったときも同じ場所に帰っていたのだが、今は同じ部屋に帰る。玄関に入ると、「ただいま」「おかえり」をお互いに言い合って、キスをする。その瞬間がうれしくてたまらない。 今日はまさに、晃が迎えにくる日だった。 腕時計を確認すると、退勤時間まであと十分。もうすぐ晃に会えると思うと、真尋は商品補充にも熱がこもった。毎日部屋で顔を合わせているのに、おかしな話だ。 ワゴンに乗せてある本を次々に棚に入れていく。時間いっぱいまで、できるだけ本を補充しようと真剣に取り組んでいると、ととと、と足音が聞こえた。この足音の主は、POPイケメン追跡班の班長、山田さんだ。追跡する必要はなくなったはずなのに、どうしたのだろうか。「柊さん、柊さん」 振り向くと、やはり山田さんがそこに立っていた。「どうしたの?」「POPイケメンさん、もとい、柊さん彼氏さんが来ていますよ」「ああ、今日くるって約束してたから。外で待ってるんでしょ?」「いえ。店内にいらっしゃいます」「え?」 付き合いはじめてから、店にくるときには事前に連絡をくれていた。今日のように帰る時間が同じときは、いつも外で待ってくれている。なのに、急にどうしたんだろうか。「なんだか、不審な動きをしてるんですよね」 山田さんはわざと声をひそめてみせた。眉間に皺を寄せて、追跡班としての職務に戻ったような顔だ。「不審な動き?」「とりあえず、ご自分の目で。班長としてお伝えするのは、ここまでです」 山田さんはそれだけ言うと、踵を返して別の棚へ消えていった。班長の仕事はここまで、ということらしい。 別に、不思議なことではないはずだ。本好きの晃のことだ。真尋を待っているあいだに、おもしろそうな本を物色しているのかもしれないから。 真尋は手早く補充を完了して、ワゴンをバックヤードに置きに行った。そしてそのまま店内の在庫を確認するふりをして、
新居に引っ越して一週間が経った。朝、目を覚ますと隣に晃がいる。そのたびに、これは夢なのではないかと思うし、毎朝幸せな気持ちになる。まだこの状況に慣れない自分に呆れさえするが、それと同時に毎日が新鮮で愛おしい。 壁の向こうから聞こえる気配ではなく、肌で感じる体温。それが当たり前になるのに、もうすこし時間がかかりそうだ。 真尋は横ですうすうと寝息を立てている晃を起こさないように、そっとベッドを抜け出そうとした。ふいに手首を掴まれて、晃の胸のなかに引きずり込まれる。「おはよう、真尋」 晃の胸に抱きしめられて、朝から心臓に悪い。けれど、これも新しい日常なのだ。「おはよう、晃」 名前を呼び捨てるのにも、ようやく慣れてきた。最初の数日は、口を開くたびに「真尋さん」「晃さん」と「さん」がつきそうになって、お互いに笑い合ったものだった。今はもう、すんなり呼べる。それだけで、世界がすこし新しくなる。 晃の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。そうすれば、晃は同じか、それ以上の力を込めて抱きしめ返してくれる。いつも同じ気持ちでいられるのが、心地いい。「なんでひとり先に起きようとしてたん」 すこし拗ねた声が、頭の上から降ってきた。先に起きようとしただけだ。たったそれだけのことでも、一分一秒でもくっついていたい気持ちがある晃には、許せないのだろう。 真尋はくすくすと笑った。「だって、気持ちよさそうに寝てたよ?」「起こしてくれたらええやんかぁ」 甘えた声。一緒に暮らすようになって、晃は甘えるのが好きなのだと知った。それは真尋も同じで、甘やかしてほしいときには晃に甘やかしてもらい、晃が甘えたいときには、たっぷり甘やかす。持ちつ持たれつの関係だ。「睡眠は大事。ちゃんと寝れるときは、しっかり寝ないと」「ほな、もうちょい一緒に寝よ?」「だめ。今日は俺、出勤時間早いから」「ええー。しゃあないなぁ」 晃は真尋にチュッと音の出るキスをすると、むくっと起きた。明らかに眠たそうな顔をしている。寝起きの晃の髪は、相変わら
真尋はベッドにごろんと横になった。天井をぼんやりと見つめる。この部屋に思い入れは特にない。ただ、職場から近くて、安い物件だっただけだ。けれど実際に明日、この部屋を離れると思うと、なんとなくさみしく感じた。 新居では、晃とふたりで寝るためのダブルベッドを購入した。このシングルベッドも明日には処分する。この狭いベッドで、何度も晃と愛し合った。嫉妬に駆られて、無理やりに近い形で抱かれたこともある。恋人になってからは、大切に、やさしく、宝物のように扱ってくれた。 シングルベッドは狭すぎて、大人の男がふたりで寝るには窮屈だった。けれど、くっついて眠ることができた。いつも晃の大きな胸のなかに抱かれて眠るのが、好きだった。ベッドが大きくなっても、またくっついて寝たいな。そんなことを考えていたら、急に腹の奥が疼いてきた。「やばっ。明日朝早いから、早く寝たいのに」 スウェットの上から股間に手をやると、ゆるく兆しはじめている。晃の息遣いや手の動きを想像してしまったからだろうか。このまま寝ても、きっと中心がさらに熱を持って、目が冴えるに決まっている。 仕方ない。抜くか。 下着のなかに手を入れようとしたとき、スマホが震えた。画面を確認すると、晃からの着信だった。真尋はそれを見てビクッとした。 ――晃さんのことを想像して抜こうとしてたの、バレた? ドキドキしながら電話に出た。「晃さん?」「今、大丈夫?」「う、うん……」「ごめん。明日早いから、もう寝るとこやったやろ?」「ま、まあ、そうなんだけどさ……」 歯切れの悪い返事しかできない。晃に変に思われているのではないかと、背中に冷たいものが降りてきた。 いや、別にやましいことはしていない。青年男子なら、誰にでも起こる生理現象だ。「あのさ……」「うん?」「今から、そっち行ってもええ?」 晃が遠慮がちに聞いてきた。明日の朝は八時から荷出しがはじまる。だから本当は
晃に「大切な話がある」と言われて、真尋はごくりと唾を飲み込んだ。緊張が走り、手先が急に冷たくなる。なにか自分がしただろうかと思い返すが、なにも思い浮かばない。どくどくと耳の奥で、血流の流れる音がやけに大きく響いた。「あのさ――」 真尋は息を呑んだ。次にどんな言葉がくるのかと、そのまま息を詰める。キュッと拳を握ると、自然に関節が白く浮かんだ。 晃の表情は、これまで見たどの晃とも違っていた。仕事モードでもない。ふだんのポンコツでもない。なにかをこの上ない真剣さで言おうとしている、覚悟の顔だ。「俺たち、一緒に暮らさへん?」 思いもよらない提案に、耳を疑った。「え?」「あ、急にごめんな。実は、付き合いはじめてからずっと思っててん。隣同士でもええねんけど……その、俺はずっと真尋さんと一緒にいたいねん」 晃は恥ずかしそうに首の後ろをかいた。「……えっと」 真尋はまだ晃の言葉を飲み込むことができずにいた。一緒に暮らす。隣人ではなくなる、ということだ。「いや、その、今すぐってわけやないねん。っていうか、一緒に暮らせたらええな、って思っただけやし」 晃は慌てて両手を振った。 一緒に暮らす。言葉を小さく口のなかで転がすと、その意味がじんわりと胸に染みこんでくる。 仕事に行く前も、家に帰ってからも、晃が家にいる。お互いの家を行き来する必要がなくなるのだ。いや、隣同士なのだから、行き来はそんなに手間ではない。けれど、すぐに会いたいとき、一分一秒も待てないとき、待たなくてもいい。いつも晃がそばにいる。「好き」と言いたいときに隣にいて、抱きつきたいときには抱きつける。そして触れ合いたいときにも、手の届くところにいる。 こんなにも真尋は独占欲が強かっただろうか。自分らしくいられる晃の隣は、居心地がいい。自分の重い気持ちも受け取ってもらえるのが、心地いい。 響と付き合っていた三年間、真尋は同棲の話を一度もしなかった。したいと思ったこともなかった気がする。一緒に暮らしたら、自分の重さが
オーナーからのゴーサインが出た。真尋は早速、颯太に手伝ってもらいながら店のSNSを作成し、イベントを告知した。晃のアイデアは、真尋が書いたPOPをSNSに投稿することだった。真尋はそんなことでいいのかと半信半疑だったが、予想を上回る反響に驚いた。『なに? このイベント! 神!』『参加したい!』『気になる!』 次々とコメントがついて、たくさんの人が真尋のPOPを見てくれているのだと思うと、真尋は胸が熱くなった。書店員になってからずっと、夜中に下書きをしては書き直してきたあの一枚一枚の紙が、こうしてはじめて遠くの誰かの目に届いている。それが、不思議で、うれしくて、すこしだけ照れくさかった。 真尋は片桐にも同じ原稿を渡し、月虹のSNSでも告知してもらった。月虹には相当数のフォロワーがいるので、すぐに反応があった。バーの常連客が投稿を拡散してくれて、瞬く間にイベントの告知は広がっていった。 月虹のSNSでは、イベントの告知に加えて、座談会の登壇者も募集した。すると、おもしろそうだから出てみたい、とセクシュアリティをオープンにしているお客さんから連絡が入った。 ありがたい。事前にこれほど反響があるとは思っていなかった。できるだけ多くの人に座談会で話してもらいたいが、人数が多すぎると話がまとまらず、せっかくの企画が台無しになる可能性もある。 月虹の定休日に、真尋、晃、片桐、颯太の四人で会議を行った。会議といっても、ただみんなで集まって飲んでいるだけなのだが。「片桐さん、お客さんでこの人なら大丈夫っていう人、このなかにいる?」 真尋は、月虹のSNSのコメントや個別メッセージで立候補してくれた人たちのアカウント名を見ながら、片桐に聞いた。真尋には誰が誰だかさっぱりわからないし、実際に接客している片桐のほうが、その人となりをよく知っているはずだと思ったからだ。「んー、せやな。けっこうみんなどぎついこと話してくれるとは思うねんけど。真尋さんはこの座談会、どんな感じにしたいん?」「BL小説や漫画が好きな女性がターゲットだから、できるだけ内輪受けにならない方向で行きたいんです」
「オペレーション・グッドネイバー」という言葉が片桐の口から出ると、晃の様子が一気におかしくなった。晃は必死に阻止しようとしていたが、片桐は風に揺れるのれんのように、のらりくらりとかわしている。「もう、ええんやって。真尋さんと付き合うことできてんから!」「せやから話すんやんか。暴露したほうが楽しいやろ?」「裏話は話さへんからええんやんか」「いや、それはちゃう。知ってもらうことで、その内容の奥深さを理解してもらえるんや」 よくわからないが、片桐と晃がやいやい言い合っているのを見ると、そのオペレーションに相当気合を入れていたのだろうと思えてきた。 月虹のカウンターの奥で、間接照明がアンバー色の光を揺らしている。今日は店の定休日だ。普段ならカクテルの注文が飛び交うこの空間に、今は四人しかいない。テーブルに置かれたタパスの皿はおおかた空になり、グラスのなかの氷だけが、ちりっと小さな音を立てる。 颯太はひとり、静かに酒を飲んでいる。いつもなら真尋に害が及ばないよう、周りに目を光らせているはずだ。だが、今夜は様子がおかしい。それに、いつもなら「オペレーション・グッドネイバーってなんだ!」と食ってかかるはずなのに、今夜はおとなしくグラスを傾けている。それも気になる。「颯太、なんかあったのか?」「なんでだ」「いや、なんかいつもと違うっていうか。だいたい晃さんのこと、あれだけ警戒してたのに、今はそれもなくなったから」 颯太はカクテルグラスの縁を指でなぞった。「うん、まあ、いけすかんやつだが、真尋が好きになった相手だしな。それにまあ、いろいろ話を聞けば、悪いやつじゃなさそうだし……」 なんとなくいつもより歯切れの悪い返事を不審に思ったが、真尋は「そっか」とだけ返した。「ことの発端は、二年ほど前のことです」 片桐がまるで講談師のように語りはじめた。張り扇がないので、代わりにパン、と手でテーブルを叩く。「ある日のことでございます。一ノ瀬晃は、街の本屋さんに、ふらりと立ち寄ったのでございます。書店の名は――